ネタバレあり。
『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編]叛逆の物語』
アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版。
まどマギの劇場版は3部作となっており、2作はアニメを再編集した総集編ですが、3作目であるこちらは完全新作です。
平和な風景
本作では、アニメでおなじみの5人が仲良く笑いあって魔法少女をしている。そんな風景を観られることは幸せだけれど、まるで同じキャラクターを使った、「まどマギ」ではない違う物語を観ているような違和感がありました。
アニメが最終話を迎えたあと、私はニコニコ動画でまどかとほむらが二人で楽しく踊っている動画を観て癒やされました。
あのとき私が求めたそんな平和な風景を、公式が新作でやってくれたのは嬉しいです。特に杏子とさやかの和解は観ているだけで幸せでした。
▲まどかとほむらの二人が幸せそうで、それだけでとても嬉しかった記憶があります。
今この動画を観ると、ほむらは円環の理(ことわり)に導かれたほうが幸せだったんじゃないかと、他人事だからでしょうがそう思ってしまうのです。
変身シーンでは各キャラクターのテーマ曲がアレンジされていてかっこいいです。
「プエラマギホーリークインテット!」
この「きれいなだけじゃない(?)プリキュア」みたいなのを2クール以上のアニメで観てみたいです。
全員の技に名前がついているのは、「ティロ・フィナーレ」でおなじみマミさんの影響でしょう。
「人間の好奇心というものは理不尽だね」
しかしこの物語は一体全体どういう時系列なのでしょう?
これまでの彼女たちの物語を知っていると、いまのこの状態に違和感しかありません。
この平和を信じていたかった。疑いたくありませんでした。
だけれどやっぱり変で、どうしてもおかしいと思ってしまう。
インキュベーター「真実なんて知りたくもないはずなのに
それでも追い求めずにはいられないなんて
つくづく人間の好奇心というものは理不尽だね」
総評としては、シナリオがすごかったです。
こんなシナリオや設定を考えられることがすごい。私の予想を裏切り、裏切り、そしてまた裏切る。数回観たほうがきちんと理解できそうです。
ほむらの強すぎた愛
ほむらのまどかへの愛は、どの時点であんなに強くなってしまったのでしょうか。
時間を巻き戻してやり直すたびに大きくなっていったのでしょうか。
それとも絶望すれば自分が魔女になってしまうかもしれず、まどかを救うどころか自分も死んでしまうことへの恐怖から救ってくれる愛に、いつの間にか依存せざるを得なくなっていき、いびつに膨らんでいったのでしょうか。望まない結末と、それを避けられず何度も繰り返してしまうことに絶望せずに再度時間を巻き戻すことで、ほんの少しでも確実に希望は生まれ、ほむらが魔女化することは避けられるはずですからね。
ここで少し、バーチャルな世界での私の体験を話します。私はとあるコミュニティで自分のアバターを消したあとに新しく別のアバターを作り、以前のアバターで仲の良かった人と接触する、ということを何度かしたことがあります。私は相手をよく知っていますが、当然、相手はこちらのことを知りません。「自分はあのアバターの人だよ」と言わないかぎり以前と全く同じ関係になることは不可能か、かなりの根気がいるように思えました。
別の話になりますが、タイムリープものでよくあるように、過去に戻ったとして、その過去で少しでも何かを変えてしまえばその後の出来事もがらっと変わってしまいます。ほんのささいなことを変えただけで世界が滅亡してしまったり、未来の世界では親友や恋人といった親しい関係になれた人相手でも、ファーストコンタクト次第で嫌われてその先の関係に進めなくなってしまったりします。
こういったことを考えると、ほむらのまどかに対する愛がどれほど強かったのかを分かった気になれます。ほむらは、自分のことを知らない、そして以前と全く同じ関係には確実になれないであろうまどかでも救いたかった。そんなまどかでもそばにいてほしかった。
ほむらの愛とはこんなに、こんなに強くて、苦しくて、ダメだと分かっていてもルールを破ってでも貫くことしかできない、そういったものだったのですね。
何度絶望しかけても時を越えて、まどかとの未来のシナリオを書き換えようとしてきたほむらが、こんなこと(円環の理に導かれること)で諦められるわけがありません。
世の中は杏子やさやかのように、最善を尽くしながらも不本意な結末を受け止められる(受け止めるしかないと思うことができる)人間だけではないのです。
やはりまどマギはほむらの物語だったのでした。